なぜキッチンカーだったのか?
創業の翌年、相模トラフを震源とするM8クラスの大地震がほぼ同時に2回発生という前代未聞の大災害が首都東京を襲いました、今で言う関東大震災でした。 都心ではあらゆる建物は倒壊し寝る場所も飲み物も食べる物もなくなりました。
一方当地福生村(現福生市)は被害は甚大なれどひとまず生活はできる状況でした。 地域では農作物や淡水魚なども良く採れ、青梅まで行けば石灰や多摩産材(建築資材)青梅縞(絹織物)も手に入りました。 弊社は開業時運送業を行おうとしていたこともあり当時としてはめずらしく外国製のトラックがありました。
そこで創業者は「世の為人の為」「誠実努力」を実行に移します。 焦土と化した東京都心部へ自社の持てる力全てで西多摩地区に残った物資を輸送したのです。 荒野を行くトラックはよく故障したので修繕知識を習得し予備の部品を携行するようになりました。 時は流れ運送事業は太平洋戦争時の国の政策で手放すことになりましたが、自動車部品販売、自動車修理整備は今もなお当社の主力事業となっています。
このいきさつを現代風に置き換えたところ キッチンカー製造となりました。
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